シスジェンダリズム
シスジェンダリズム(英語: cisgenderism)とは、性別は2つしか存在せず、出生時に割り当てられた性別に従うべきだというイデオロギーを指す。シスセクシズム(cissexism)[1]や単にジェンダリズム(genderism)[2][注釈 1]とも呼ばれることもある。日本語ではシスジェンダ-主義とも表記される[4]。
個人レベルの偏見を指す「トランスフォビア」の代わりに、文化的・制度的なレベルでの規範を指す言葉として提起された用語である。「ホモフォビア」の代わりに「異性愛規範」や「ヘテロセクシズム」概念が提起されたことと類比的に捉えることができる[5][6]。
定義
[編集]SAGEトランス研究百科事典では、シスジェンダリズムは「一部の人々の自己理解を無効なものとして扱う体系的抑圧を指す包括的用語」であり、「人々のジェンダーと身体に関する自己定義や分類に疑問を投げかける概念、言語、および行動を含む」ものだと定義されている[7]。シスジェンダリズムは、シスジェンダーと見なされる人々を含めすべての人々に影響を及ぼしうるが、トランスジェンダーの人々を標的とすることがより多い[7]。
シスジェンダリズムという用語は、トランスフォビアという用語よりも、偏見と差別の根底にあるシステムのイデオロギーを捉えることができる[5]。ヘテロセクシズムがホモフォビアと対比されるのと同様に、シスジェンダリズムはトランスフォビアと対比して定義される。トランスフォビア概念がトランスジェンダーと見なされる人々に対する態度に焦点を当てるのに対し、シスジェンダリズムはイデオロギーとして説明される。このイデオロギーは「体系的かつ多角的であり、権威ある文化的言説に反映されている」ものである[6][8]。シス規範はシスジェンダリズムの一形態として位置づけられる[7]。
シスジェンダリズムへの批判は、シスジェンダーとトランスジェンダーという区別そのものを批判するものでもある。どちらの概念も性別二元論的な西洋文化から生じたものであるため、ジェンダーについて異なる見解を持つ社会には適用できない。ノンバイナリーやインターセックス(性分化疾患)の人々も、シス/トランスという二分法に疑問を投げかけるものである。したがって、シス/トランスという二元的な区別そのものが、シスジェンダリズムの結果だと考えられる。また、シスジェンダリズム概念は、批判的障害学や批判的人種理論およびエスノセントリズム(自民族中心主義)批判から影響を受けている[9]。
特徴
[編集]シスジェンダリズムは、セックスとジェンダーは男/女の2つしかなく、ジェンダーは生涯を通じて不変であり、ジェンダーは外部の権威によって割り当てられるべきであるという思い込みを前提としている[10]。このような想定のもとで、インターセックスの人々や、異なる仕方で性別を捉えている社会の存在が無視される。また、こうした想定に従わない人々はトランスジェンダーだとみなされ[11]、「逸脱的、不道徳、さらには脅威的」とみなされる。シスジェンダリズムは、自らを維持するために、偏見、差別、暴力を正当化する[5]。
影響
[編集]シスジェンダリズムは、出生時に割り当てられる性別が性同一性と一致しているシスジェンダーのアイデンティティと表現を重視し、結果としてトランスジェンダーのコミュニティに対する偏見や差別を助長する[5]。シスジェンダリズムは、生物学的性別の武器化に依存する反トランスジェンダーの言説にも関係している[12]。
シスジェンダリズムは、意図的であるか否かにかかわらず、その標的となる人々に様々な影響を及ぼす。その結果として、人々の性自認が病理化されたり、障害として見なされたりする。これは抑うつの一因となり、精神医療へのアクセスを困難にする。また、性自認のために人々を疎外することがあり、緊張状態や嘲笑・ヘイトクライムのリスク上昇につながる[7]。
シスジェンダリズムの現れのひとつとして、本人の意図に反して誰かをLGBTとして分類する「強制的なクィア化」(coercive queering)が挙げられる。トランスジェンダー特有の問題に実際には対処せずに、トランスジェンダーの権利問題をレズビアン、ゲイ、バイセクシャルの問題と一緒くたにすることも、これに含まれる[13]。
ミスジェンダリング(誤ったジェンダーで呼ぶこと)や、人々を身体的特徴に還元することによる客体化も、シスジェンダリズムの帰結である。このほか、トランスの抹消、すなわちトランスジェンダーの人々が直面する困難が支配的な言説の中で表現されないことも、シスジェンダリズムの結果である。パッシングは、シスジェンダー主義の規範に外見的に適合することで、シスジェンダリズムの影響を回避する一つの方法である[14]。
シスジェンダリズムは医療の現場でも問題となる。医療提供者は自身の偏見ゆえにトランスジェンダーの患者の身体や健康上のニーズについて一方的に決めつけてしまうことがある[15]。例えば、医療提供者は患者のトランスジェンダーの経験に固執しすぎて、本来の求めているケアに注意を払わないことが起き、この現象は「Trans broken arm」と呼ばれる[15][16]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「genderism」という用語は1970年代から社会学で使用された言葉で、もともとは「sexism」という用語の代替として登場した[2]。2000年代からは反ジェンダー運動内で敵視する対象を表現する言葉として用いられるようになった[3]。
出典
[編集]- ^ “Cissexism”. The SAGE Encyclopedia of Trans Studies. 2025年9月5日閲覧。
- ^ a b “Genderism”. The SAGE Encyclopedia of Trans Studies. 2025年9月5日閲覧。
- ^ “The anti-gender movement explained: How the threat to women’s and LGBTQ+ rights is spreading around the world”. CNN. 2025年9月6日閲覧。
- ^ 大山治彦「SOGIに敏感な視点による家族社会学へ向けて」『家族社会学研究』第35巻第1号、2023年、49-61頁、doi:10.4234/jjoffamilysociology.35.49、2025年9月4日閲覧。
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- ^ Kennedy, Natacha (2013). “Cultural cisgenderism: Consequences of the imperceptible”. Psychology of Women Section Review 15 (2): 3–11. doi:10.53841/bpspow.2013.15.2.3.
- ^ Ansara, Y. Gavriel; Berger, Israel (2021). “Cisgenderism”. The SAGE Encyclopedia of Trans Studies. SAGE Publications. ISBN 978-1-5443-9381-0
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